昭和48年04月24日 朝の御理解
御理解 第49節
「信心は相縁、機縁。」
類は類を持って集まると云う様な縁があります。相縁、縁が相合うのである。本当に不思議と思わなにゃおられない。不思議な縁で、例えば皆さんと私共との縁が出来た。合楽教会との縁が結ばれた。そこでその縁をいよいよ有難い尊い物として感じられる様な縁に結ばれたい。ああ云う不思議な事で縁を受けたけれども、あれはあの時なりの物であったと、云う様な簡単な物では無くて、何処迄も一つ、云うならば永劫助かって行けれる、永遠に助かって行く元と云う物が、合楽に縁を受けた所から始まった。
と云う様なおかげを頂きたいと思います。此の世は苦労しげに来たのだと云う風に申します。いわゆる此の世あ苦の世だ苦の世界だと。確かにそうであります。本当にこの世は苦労しに来た。それは苦労と云う事に依って魂が清められる。仏教的に云うならば人間が此の世に生を受けたと云う事は、それはもう大変な事である。いわば人間に生まれ変わって此の世に出て來ると云う事はもう大変な、例えて云うならもう大変な年数を要してようやく此の世に人間に生まれて来た訳である。
そしてその人間が永劫助かって行けれる事の為に、此の世に苦労と云う、いわゆる修行と云うものがあって、その修行に依って、苦労に依って魂が清まって、その魂があの世に又生を受けた時に、いわゆる安らぎの霊として仏教的に申しますと、永劫極楽で過ごせれる事の為に、私共の此の世での苦労があるのだと云う風に説いてあります。ですから、私共が此の世に生まれて来たと云う事。
そしてとうとう信心の縁と云う物は分からんなりに、又折角何千年もひょっとすると何万年も掛かって、この世に人間として生まれて来たかも分からないのに、又そう言う所へ落ちて行かなければいけない、と云った様な結果の人がどの位あるか分からん。それを私共は金光教の信心に縁を頂いて、金光大神のお取次に依ってそして助かって行く道、魂をいよいよ清めて行く道を体得させて貰う。合楽に御縁を頂いて共々に助かり合うていこうと云う信心の稽古を日々この様にさせて貰う。
ですからどうせ此の世は、苦の世であり苦の世界であるならばです、その苦労がいよいよ魂を清める、事の為の苦労になして行きたい。そうありたいと願うのです。苦労が益々根性が悪うなる為に苦労をする、と云う様な場合ですら有るのですよ。あっちは若い時にはそうにゃ苦労しちゃるけんで、もう年を取って行くに従ってです、根性が悪う成らっしゃる、と云う様な苦労がかえってその人の根性をいがめたり、する様な場合があります。信心はそれを修行と頂いて、魂が清まる事の為にです、苦労をする。
ですから、折角させて頂く苦労ならば、もう貴い苦労、有難い苦労、その都度都度に心が清まり心が美しゅうなり、心が愈々大きゅうなって行く、事の為の苦労にしなければならないと云う事です。私は今日は此の、御理解四十九節を四十九(しじゅうく)節と感じた。しじゅうきゅう節と云う事は、は始終苦と云う事である。何時もが苦労だと言う事である。生きると云う事は必ずその様に苦が伴う物だと云う事である。
その例えば折角のその所謂仏教的に申しますと、もう此の世には私共が苦労しげに出てきて居ると、しかもその苦労しげ来とると云う事は、魂を清める為に苦労はあるのだけれども、教えと云う物を知らない。信心と云う物が分からないとです、その教えの為にかえって根性が悪くなって行くと云う様な事にすらなって来る。信心させて頂いて苦労が大きければ大きいだけ、おかげが大きいと仰るのですからね実際。
人の云うならば真似の出来ん様な云うならば苦労、それこそ人が人遍なら私しゃ行人遍と云う生き方でです、その苦労を苦労とせず、全部身に頂く明りと云うか光と云うか力と云うか、身に徳を受けて行くというかそう言う身に徳を受けて行く、事の為の修行にする有難い事になって来る。それが尊い物になって来る。それこそあの苦労のおかげで、いわゆる苦労様々と云う事になって来る。それが私は信心だと思う。
どうせ四十九ならば、どうせ一生が苦労であるならば、一つ尊い苦労をさせてもらおう。和賀心が神に向こうのを信心と云うのじゃと仰るかるから、和賀心が愈々神様へ向こうて行く為の精進をしよう、そういう為の修行をしよう、自分の心掛け一つなんです。とても人が味わい切れない程しの味わいを、その苦労の中から苦労の味わいと云う物を頂いて行く。私は最近思うですけれども、教祖様が天地金乃神様との出会い、そして天地金乃神様の神頼みを受けられて、私共人間氏子が助かって行く道が出来た。
天地、いわゆる天地宇宙なんだ。天地宇宙の事を願われた。私共はまあ地球上の事だけ、いいやそらぁもう自分の事だけ、いいや自分一家の事だけ。それはもう合楽と云う只村の事だけと言った様な事だけではなくてね、もう世界全体と云う訳です。けれども私は最近はね、そんな氣がするんです。宇宙全体の事を願わなければおられない。地球だけが例えば、どんなに繁盛して参りましても、地球だけの中に、どの様に人間が幸せになっていても、宇宙のどの一つの星が狂いましてもです。
云うなら最近頂く様に、一糸乱れぬ例えば運行があっておるのに、例えばその一糸が乱れた為にです、どんなに地球上の人間が幸せそのものであってもです、それが地球の例えば破壊と云う様な事にならんとも限らんのです。ですから私どもはこう宇宙人としての自覚と云う様なものがね、いる様な気がする。何か映画でインペイダーですか、宇宙人との何か宇宙人が地球に向かって何かその運動を仕掛けると云うか、戦争を仕掛けると云った様な映画が有りましたですね。
矢張り例えば人間が住んでおるのは、この地球上だけなのですから、私共の住んでおる世界にだけしか人間と云う者はおらんのですから。ですからなら、その宇宙全体の事を祈るとか、願うとかと思える物は人間以外にはないのですから、いわゆる私共は天地の子である。地球の子じゃない。してみると天地の子と云う事は、宇宙人と云う事である。宇宙に住まわせて頂いておる。その宇宙の事をです、
生きても死にても天と地とは我が住処と思えと仰る。私共の住処である所の宇宙全体の事を祈り願わなければなんかおられない様な氣がするんです。何かえらい途方もない、それこそ天文学的な事とでも申しましょうか。私共は合楽教会に御神縁を頂いて、まあ云うなら私が此の様な途方もない様な事を云うておる。世界中に和賀心時代を敷かなければならないとか、もう本当に是はもう事実なんですけれども、どれだけ沢山の世界中の氏子の霊と云う精霊達の事を願わなければおられない、人間だけの事じゃない。
亡くなっておるその、精霊達も只自分に縁のある人と云う事だけでなくして、もう世界中の云うならば精霊に対する縁は縁として、祈らなければおられない様なものが、私の心の中に育って行って、最近申します様に地求人では無くて、私共は宇宙人としても自覚。それは何故かと云うと、天も地も、云うならば私共の生きても死んでもの、住まいだと教祖は教えられておられる。
私共住まいの中ですから、その自分の住まいの事を祈らん訳にはいかん。云うならば私が大坪一家の事を一生懸命願う様に、皆さんが皆さんの一家中の事を親戚中の事を、又隣近所の事迄も願われる様に、それが段々大きゅうなって行く所の祈りに進展して行くと申しますか。其処でです、私は折角一生が修行だと教祖も仰っておられる様に、一生が四十九であるならば、苦労と云うものは人間に伴うておるもんだ。しかもそれを良く分からせて貰うと、その苦労に依って私共の心が清まって来る。
そしてその清まった心でです、云うならば此の世に有難いと云う心を開いてです、一切の事が有難いと心に分からせて頂いてです、その心はあの世に参りました時には、それは安心の霊として、又は極楽。いわば往生が出来る所の、又何に生まれ変わって来るか分からない様な事ではない。永劫助かりの霊としておかげを頂いて行く事のです、出来れる事の為に此の世の苦労は有るのだ。この世に生まれて来たんだと云う程しの物を一つ感じて行かなければいけないと思う。
だから合楽に縁を頂いたと云う事は、そう言う事の例えば大変な事のおかげを頂く事の為にです、その縁と云うものを生かして行くと云う所に合楽に縁を頂いた値打がある。そこでそんなら私は皆さんにその為に、私共がおかげを頂かなければならんと云うのはそう言う例えばとてつもない事を、今日私は皆さんに聞いて頂いた訳なんですけれども、もう愈々もって私が大きくなる所の全部を修行にしたいと私はこう思う。
どんなに難儀な問題があっても、どんなに悲しい事が起こって来ても、それはもう此の世で受けなければならない苦労であるならばです、修行であるならばです、その修行を只修行に終らせず只苦労に終らせず、其処に焦点をハッキリして私自身の魂が清まる事と同時に大きくなる事の為の修行にしたいと思うのです。大きくなりましょうお互いに大きくならにゃいけん。宇宙人の自覚に立たなければいけません。そしてその起きて來る一切の問題が私の心を、愈々偉大な大きくして行く事の為の修行にして行こう。
是から先どう言うそんなら苦労が待ち受けとるかも分からない。けれどもその苦労に依って一段私がです、大きゅうならせて頂く所のおかげを頂いたら心が大きくなるのですから、受け者が大きくなるのですから、もうおかげも偉大なおかげと云う事は、もう言を待ちません。言うに更なりであります。折角今朝持っておる難儀やら苦しみやらをです、只それが只の四十九、人間と言う物はこう言う辛いとか、苦しいとか悲しいと云う事に直面するごと出来とるとじゃ。
だから、仕方が無いんだと、云うのではなくてです、この世には清まりげ來とると、此の世にはいわば魂を清めに来て居るんだと分からせて頂いたら、その清まるという事がです、清めた上に一つ大きくなろうと云う事です。あの人は心の大きい人だ。あの人は心が小さい人だと云うのとは違います。信心に依ってどういうそれこそ、私共の様に消し粒の様な小さい心の人間でもです、信心に依って段々おかげを頂いて行く内にです、今申します様に何か知らん、宇宙人としての自覚が出来て来ておる。
成程生きても死んでも天と地とは我が住処ですから、その住処の事を願わなければ居られない程しの物が、何とはなしに出来てきておる様な感じがするのです。ですから、その中に起こって來る問題の全てがです、私を愈々大きくして呉る事の為の苦労であり、それを信心では私を愈々清めてくれ、私を愈々大きくして呉れる事の為の修行だと受けて行くと、その修行は愈々尊いもの。どんなに私共が、心が神様に向かって参りましても、最近頂きます様に、神様には神様の悩みがある苦しみがある。
そういう神様が悩みなさる程しの尊い悩みを、悩ませて頂ける位なおかげをひとつ頂かせて頂きたい。それこそインベイダーじゃないけれども、私共は地球人としての例えば自覚、そして宇宙人としての・・・ですから、私共が宇宙全体の事をです、我が住処としての本当に思い祈れれる信心を頂きたい。そういう心にです段々心が大きくなって來る。その心が大きくなってくる事が本当な事になって来るに従って、なら大きいおかげは約束されるのですからね。
私は折角合楽に縁を頂いたのですから、難儀又は苦労と云うその難儀苦労と云う物をです、私共が有難く頂けれる道を体得した。その難儀苦労を私共は愈々私共が偉大に大きくなって行く事の為にです、その苦労が行使されると云う様な道を憶えたと云う事になるならばです、合楽に縁を頂いたと云う事が大変な有意義な、大変な有難い尊い事になると思うのです。私共の一生だけの事ではない、もう子々孫々に迄ですその事が合楽に縁を頂いておったと云う事が有難い尊い事が言えれる様な一つ縁に育って行きたいと思います。
どうぞ。